令和6年度史跡見学会を実施しました

令和6年度の史跡見学会は 「歴史と文化の城下町 村上市見学会=中世からの城下を尋ねて=」と題して実施しました。

●日 時  令和6年5月19日(土)
●行 程
新発田ー平林城跡ー磐舟柵跡いわふねのきあと石船いわふね神社-藤基ふじもと神社ー松浦屋(昼食、お土産)ー大場澤城跡、普済寺-新発田
●参加者 22名(案内人1名を含む)

平林城跡

 平林城は、中世阿賀北の小泉荘加納こいずみのしょうかのうの領主、色部氏の居城。慶長3年(1598)に色部氏が出羽国金山城かねやまじょう(山形県南陽市)へ移封後、廃城となる。麓には同氏の居住跡・土塁・堀等の遺構が遺っている。昭和53年9月18日に国指定史跡に指定される。

平林城跡のガイダンス施設
殿屋敷と呼ばれる大規模な建物跡であることから、
色部氏の主殿と考えられる場所

磐舟柵跡(いわふねのきあと)、石船神社(いわふねじんじゃ)

磐舟柵跡

 日本書紀によれば、「磐舟の柵を治まりて、蝦夷に備ふ。遂に越と信濃の民を選びて、初めて柵戸を置く」と記載あり。昭和32年(1957)に磐舟柵の場所を3ヵ年にわたって調査するも確定できず。

巨大な磐舟柵跡の石碑

石船神社

 大化4年(648)磐舟柵が置かれたとき石の小祠があったと伝えられる。大同2年(807)北陸道観察使秋篠朝安人が京都の貴船神社を勧請され奉祀される。(案内看板より)

磐舟柵跡・石船神社の解説を聴く
石船神社社殿

藤基神社(ふじもとじんじゃ)

 当時は村上城内に鎮座し、内藤家の開祖内藤豊前守信成公、歴代城主を主祭守として祀る神社。社殿は総欅造りで日光東照宮と同じ権現造り。嘉永2年(1849)に当時の工匠が8年の歳月を費やして造営。村上が生んだ工匠・有磯周斎ありいそしゅうさいによる、かご彫りと呼ばれる彫刻が随所に見られる。
境内には、幕末に村上藩を救った若き家老、鳥居三十郎の追悼碑も建立されている。

藤基神社
鳥居三十郎の追悼碑

割烹 松浦家(昼食)

 村上市内の風情を醸し出す老舗の割烹で、村上名物の鮭料理・村上牛料理が味わえる、純和風の風格ある名店で昼食。

割烹 松浦家
純和風の昼食に舌鼓

岩船郡大場沢開墾(車窓より)

 明治4年12月に布告された奉還家禄により、旧士族の転向がいかに厳しいものであったかを物語る事例を、大沼長栄氏が解説。旧新発田藩士集団入植地の岩船郡大場沢村・同下新保村での、過酷な開墾の実態を、車窓から現地遠望・解説。(新発田郷土誌第8号に掲載あり:旧新発田藩士拓地記録、松田時次著)

大場澤城跡・普済寺(ふさいじ)

大場澤城跡

 大場沢集落の南部に位置する丘陵(標高70~90m)の城跡で、戦国時代に揚北衆として活躍した鮎川氏の居城と伝えられている。東西約700m、南北約200mの規模を誇る城域。城跡には、曲輪・切崖(きりぎし)尾根を切断した竪堀・畝形阻塞うねがたそさいなど徹底的な防御で固めた遺構が今でも遺る城跡です。

今も畝形阻塞が遺る
急峻な大場澤城跡を登る

普済寺

 村上市郊外の大場沢に建つ「大葉山普済寺」は、室町時代の大永7年(1527)に創建された寺院。当時、揚北衆と呼ばれる阿賀野川以北の豪族、鮎川清長公の菩提寺として建てられた。
 本堂には村上が生んだ名工・有磯周斎の描いた、龍・鳳凰・麒麟・獅子など、12枚の天井画が遺されている。現住職が永年にわたり作庭した、山の斜面を活かした見事な庭園も必見です。副住職の、角一大樹和尚の解説も、弁舌なめらかで、説得力あり。

本堂を庭園の斜面より
山の斜面を活かした見事な庭園
副住職角一大樹和尚の名解説に納得
説明看板

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