新発田重家の合戦関係城館2 五十公野城、上杉景勝陣場跡


小林弘

合戦の激戦地・五十公野

 新発田市市街地の東方、新発田がある扇状地にぽつんと小独立丘陵の五十公野丘陵が南北に連なる。 五十公野城はその南端付近にあり、五十公野道如斎が城主といわれている。 天正15年新発田因幡守重家を攻撃する際、上杉景勝より攻撃を受け落城する。

 最初、景勝は新発田氏の要・五十公野城を攻撃。城跡の300m東の尾根上に景勝が布陣したと伝えられる場所があり、小陣地が見られる。本丸は「く」字状に屈曲し土塁で2郭の区画されている。本丸を東に続く尾根から分断する為二重の空堀を設けている。南には大手虎口をの一部の郭が3段設けられている。

 大手道は五十公野氏の菩提寺・安楽寺の裏に繋がる。 現在城跡の西側にある五十公野小学校の場所は、学校ができる前は少し高くなっていたということで、「櫓下」の地名があり居館があったと伝えられている。

 隣接する東中学は、学校敷地を造成する以前は五十公野城と尾根続きで、空掘、土橋、曲輪があったという。小学校から安楽寺や他の寺院がある付近は根古屋に対比できそうで、その周囲に町屋があり「上町」「下町」「外城」七軒町」「古町」の地名が残り戦国期の城下町の様相を想起させる。城跡周辺からは、中世の石仏、板碑が確認され、山王遺跡から13世紀~15世紀代の集落跡が調査で見つかっている。

 なお、新発田合戦の上杉氏との合戦の様子は江戸時代の軍記物『菅窺武鑑』に 詳細な様子が記載されている。 近年居館と考えられる場所の調査が実施され、学校敷地から中世の遺物が多量に出土した。

山頂本丸の石碑
強固な二重堀の空堀
城下にある五十公野氏菩提寺・安楽寺
「櫓下」付近

引用参考文献
・大家健(『図説 中世の越後』野島出版)
・越後史集(大正5年)『菅窺武鑑』越後史集刊行会
・北陸中世考古学研究会(2003)「中世城館から城下町へ」第16回北陸中世考古学研究会資料集

上杉景勝陣場跡(鷹持場)

 新発田市市街地東方に連なる標高100m前後丘陵地南端付近。 五十公野城跡の東へ尾根続きの場所の「上杉景勝陣場跡」と伝える場所がある。 現況は山林で、尾根が広く人工と思える、高さ3m、径9mの円形土壇と平坦部が認められる。 谷間俯瞰して望むことができ、対岸の山に五十公野山城跡を望む事ができる。 

 江戸時代の軍記物「管窺武鑑」によれば、天正年間の新発田重家と上杉景勝の戦乱(新発田合戦)で、新発田重家と同盟関係にあった杉原、新潟、沼垂、赤谷、米倉が落ち次第に孤立し落城は時間の問題であった。上杉軍は1万余りの軍勢で天正15年(1587)ついに、新発田軍のひとつで新発田氏の一族の五十公野道如斎の五十公野城を攻撃開始した。上杉軍の総攻撃の総司令官は直江兼続で、五十公野山城跡の東へ尾根続きの場所の「上杉景勝陣場跡」に陣場を築き、東の山下を流れる加治川を南方から堰入れて新発田城との連絡を絶ち、城の背面から攻撃した。次第に、城は占領され10月3日、上杉景勝は城の北東に軍を進め鷹持場の山頂から城内を窺がった。

  直江、泉沢、藤田、信州勢、栗田、清野、市川、岩井などの上杉軍が城を囲み、毎日のように火矢を城内に射掛けたが防備堅固でなかなか落城しなかった。直江は苛立ち、総攻撃を命じ、大手口から竹束を盾にして攻め登った。10月13日深田に材木を敷き城に攻めかかった安田、小倉軍が城の搦め手から攻撃を受けこれもまた、崩れかかった。

 しかし、内通者が五十公野山城内に居て、上杉軍を引きいれた為、城内混乱に陥り、城内搦め手から逃げようとした 道如斎を、馬から引き落とし首を取られ天正15年10月23日、五十公野城は落城した。 ここに、五十公野氏は滅亡する。 このときの戦闘の陣取りの状況は城跡の麓の金蘭荘前に案内看板で見ることができる。

陣場跡
金蘭荘前の説明版

● 引用参考文献
『新発田市史』上巻 飯田素州(2005)『越後加地氏新発田氏の系譜』新潟日報事業社

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