新発田重家の合戦関係城館 1 新発田城、猿橋氏の居館

小林弘

新発田氏の居城・新発田城

 鎌倉時代の源頼朝の命により加地庄の地頭に任じられた佐々木三郎盛綱は南北朝期には加地、新発田、竹俣など幾つかの支族に分かれた。室町時代には新発田氏は有力な国人領主となり、越後北部に頭角を表していた。新発田因幡守重家の居城は、赤谷城の小田切氏、五十公野氏とともに上杉景勝に対峙し天正15年(1587)落城する。新発田氏の居城は近世新発田城の「古丸」付近と考えられており、現在防衛庁・自衛隊敷地となっている。

 新発田氏時代の居城跡は後の溝口氏が新発田城を築城するにあたり壊滅し、旧状は現存していないが、江戸時代の軍記物の「管窺武鑑」に記載されている。「管窺武鑑」は夏目定房著作、元禄6年(1693)頃の作とされ、信頼度が高い情報が含まれているとされ、当時の研究に度々引用されている。
     
 それによれば、新発田城の大手は「藤田能登守は、南方大手猿橋口より取寄する」とあり、現在の猿橋付近が大手口だったようである。「殊に城は、縄張り堅固なり。其の上、本城堀広く深きに、又堀中に小土手を築き候故、二重堀の如くなり。」とあり、2重の堀と小土手の記事があるので、障子堀などの存在を暗示させる。大手口が猿橋であれば搦手はその反対側の上町付近が相当しようか。また、「安田上総介、攻口搦手へ出でて一之城戸の町屋へ、火を懸けて攻懸かる。」とあり、搦手周辺に町屋と城戸があったようである。この記事はあくまでも、軍記物に記載されてあるもので、信頼性に欠けるかも知れないが・・・。

 自衛隊敷地内の平成7年~8年の調査の際、旧古丸付近から、新発田氏時代に対応する輸入陶磁他の遺物と柱穴が確認され、溝口氏入封(1598)以前の居館跡と考えられた。 新発田氏が当地に築城する以前の遺物として、平安時代の遺物も確認され築城以前から集落が営まれ丘陵地であったようである。

新発田因幡守重公像
新発田因幡守重公墓所、菩提寺・福勝寺にて
明治初年の新発田城古丸付近・・・「L」字形の池付近が新発田氏居城跡


引用参考文献
・小村弌、宮栄二監修(昭和40年)『新発田藩史料』新発田市史資料第1巻付録新発田城絵図
・ 越後史集(大正5年)『菅窺武鑑』越後史集刊行会

新発田城の陥落と猿橋氏の謎の居館

 新発田市市街地西部に、猿橋地区がある。今は、すっかり住宅地や商店街の中心地になり、車の往来が激しい。まさに、車と人の戦国の世と言っても過言ではない。戦国時代の往時を偲ぶことはできないが、現在の猿橋中学校付近に、戦国時代、上杉氏が割拠していた頃、猿橋氏という 殿様が居館を構え新発田城のの西の守備についていた話など、今の様子からは窺がうことはできない。 

 猿橋は、中世には「加地庄冨塚条」と呼ばれていた。 『鶴ヶ岡神主家伝文書』に地名の記載があるという。冨塚条は、冨塚、猿橋を包含した場所である。現在でもその町名が残っている。冨塚条は、加地氏の開発により発展し、西方の佐々木まで拡大進展したという。猿橋氏は加地氏の血縁関係の政利氏が初代猿橋氏にあたり 猿橋和泉守は8代目である。

 天正6年上杉謙信が亡くなると後継争いの御館の乱が起こり、新発田因幡守重家は大いに戦功をあげた。合戦が終結し、論功行賞の結果に不満を持った新発田因幡守重家は、上杉影勝と対峙し合戦となり、新発田周辺で激しい戦闘になった。 歴戦の兵を持つ上杉勢にはかなわず天正15年(1587)ついに、新発田因幡重家は自害。 新発田城は落城する。このとき、新発田の西方の守りについていた猿橋和泉守は、上杉軍に内通して、新発田城の猿橋口から上杉軍を引き入れる代わりに、命乞いをした。城内に軍勢が入るとたちまち新発田城は混乱し、遂に新発田氏は自害し新発田城は落城してしまう。 今から考えれば、戦争は悲惨であって命乞いをした猿橋氏の気持ちも解からないでもないが、 その後戦闘が終結し猿橋氏の処罰はどうだったのか、知るすべもない。

 猿橋氏の居館跡と思われる場所は、はっきり断言してピンポイントで伝える事はできないが、 推定場所として現在の中学校付近ではないかと思う。それは、以前から伝えられている場所であるが、住宅地の為、遺構などは確認できないが、5.6年前に偶然、新潟市の公共機関に当地の明治期の古い図面が保管されている事がわかり、閲覧する機会があった。現在の地図を、その古地図に重ねると現在地と対比でき、方形の居館らしい区画があることがわかった。居館跡?の一部は、後世の短冊形の都市区画により切られているものの、古地図から推察して新発田川の自然堤防上に作られた居館らしい。「館」のつく地名も残る。ただし、あくまでも推測なので断定はできないが??? これからも謎が謎を呼びそうである。

居館跡と思われる付近にある神社。


●参考文献
・飯田素州(2005)「越後加地氏新発田氏の系譜」新潟日報事業社 参考 (昭和11年)
・温故の栞  猿橋の古城跡
 同郡(北蒲原郡)豊田庄猿橋の古城跡は、新発田の市街に続き平城なり、 当時入り船の城と名け沼を要害に構ふ、佐々木盛綱の一族猿橋監物居城とす、 後年上杉家に属し氏を庄田と改む、同郡(北蒲原郡)飯野の城主長尾家と所領界目の争論より、 私に戦端を開く、故に弘治年中両家共国を逐れしと云ふ。

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