新発田重家の合戦関係城館4 津川城/阿賀町

小林弘

津川城/阿賀町

 阿賀野川と常浪川の合流地点の字城山(別名・狐戻城)にあり、古くから津川の町並みがあり水運と会津街道の要衝であった。 川の合流地点に麒麟山があり、標高は194mでそんなに高くはない山であるが、 岩山で峻険な山である。この場所に山城が築かれている。現況は登山道が整備されており、山頂には展望台もある。
 
 山頂本丸は細長い区画で山頂本丸から東に延びる尾根は空堀で区切られている。山自体岩山で峻険な事から、天然の要害で尾根を区切る空堀も一条であり、 その延長線が北側に縦堀となって斜面に掘られている。主郭は3段に分かれていて大手からの 虎口は石垣で覆われ近世的城郭の様相も垣間見る。主郭を結ぶ通路には石の段が見られ、郭内には、所々搬入されたと思えるような亜円礫、亜角礫が散見される。二の丸の東端には、 櫓台の跡があり方形の土壇となっている。

 阿賀野川に面した場所には、急な斜面を下りて行くと 港と考えられている場所がある。常浪川添いの登山道入口から城跡の入口付近に折曲歪の土塁が見られ、幾つか平坦な場所が見られ居住空間と思われる場所がある。大手口と思われる。縄張りの様相から中世後半から近世初頭期の城郭の特徴があると考えられている。

  城主は会津の所領を与えられた佐原氏の一族で藤倉盛弘が建長4年(1252)に築城した。津川城は会津芦名氏との連絡の要衝で長尾為景の津川城攻撃など歴戦の地でもある。 越後の御館の乱以後、論功行賞に不満を持った新発田因幡守重家は上杉景勝と正面から対立する。運命になり、当時の津川城主・金上盛備氏は上杉との中立を保持しながらも新発田氏に対し、援軍や兵糧などの援助を行っていた。上杉景勝はこうした現状から、直接新発田氏を攻め落とすには難しいと判断、新発田氏と内通していた赤谷、米倉、津川を攻め連絡を絶つ手段に出たのである。

  天正15年(1587)7月23日、景勝は1万騎を従え春日山城から新発田城下に侵攻した。 会津の津川城との連絡を絶つ為、赤谷城攻めを行った。 その時、津川城の金上氏は後詰の兵を出したが一の渡附近で戦闘になって敗退したが、 改めて300騎で諏訪峠に至るが小桶に上杉軍集結の噂を聞き、撤退した。 これで赤谷城も孤立し落城した。

 天正17年(1589)伊達政宗との摺上原合戦で芦名氏は滅亡し、金上盛備氏も戦死。 その後、在番が何人か置かれ江戸時代に入り寛政4年、加藤氏入封後、江戸幕府の命により廃城になる。

参考 「新編 会津風土記」
狐戻塁跡
 町ノ東北二町ニアリ、頂上マテ三町、周一里計ノ巖山ナリ、其形麒麟ニ似タリトテ麒麟山トモ名ク、 西端ノ頂上ニ本丸ノ跡アリ、東西八間・南北十二間計、半腹ニニ三ノ丸、或ハ出丸・馬場等ノ遺跡アリ、 西南ハ室谷川ニ臨ミ東北ニ揚川ヲ瞰ル、ニ水山下ヲ環リ西ニ至テ流レヲ合ス、 東ハ石壁高ク屏風ヲタテタルカ如シ、其嶮狐モ過ルコトアタハス此ニ至テ却歩ス、 故ニ狐戻ノ名アリトソ、斯ク双ヒナキ要害ナレトモ水ニ乏ク、桔槹ニテ水ヲ汲シ跡山ノホトニアリ、 南ノ方ニ隍ヲ回ラシ、石垣モ遺レリ、又東南ノ山麓ニ周十八間ノ沼アリ、鶴沼ト云、 其上ノ方ニ旧城門アリシトテ今天守ト称ス、相伝テ往古安部貞任コレニ居リ、 マタ宗任コレニ居ルトモ云、一説ニハ建長四年葦名ノ臣藤倉伯耆守盛弘ト云者コレヲ築キ、 子孫相続テ十四代遠江守盛備マテ此ニ住スト云、天正十八年ヨリ蒲生氏ノ臣北川土佐某、 建長4年ヨリ上杉氏ノ臣小国但馬某、同六年ヨリ蒲生氏ノ臣岡半兵衛重政、 同十八年ヨリ本山豊前某城代トシテ此ニ居ル、同十九年下野守忠郷其弟中務大輔忠知ニ与フ、 忠知幼ケレハ蒲生五郎兵衛郷春城代タリ、元和元年ニ毀ツ、城附ノモノナリトテ馬鞍旗竿鉛子等アリ、今津川町ノ倉ニ蔵ム

山頂本丸の城跡の碑
山頂本丸の空堀
城の守護神
本丸附近の石垣
本丸附近に残る礎石あるいは区画石
主郭への通路に残る石階段
櫓跡
城跡北側斜面の曲輪群
津川城付近の地図
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