新発田重家の合戦関係城館 6 加地城/今泉館

小林弘

加地氏の居城 加地城

 新発田市の人に、「加地山」と呼ばれ親しまれている要害山は櫛形山脈南端に位置する。往時は今泉川がすぐ真下を東から西に流れ旧紫雲寺潟に流れていたが、江戸時代の干拓事業により、 今泉川は流れを替え坂井川と加治川が流れ、紫雲寺潟も消滅した。

  山頂へは、東宮内の藤戸神社からダイエットを兼ねて山道を行くと たどり着く。どうも、最初の鬱蒼とした日当たりの悪い藤戸神社は苦手だ。山頂本丸からは加地庄が手に取るように見渡せて、 ベンチもありくつろげる。山頂を大きく削平し本丸とし、西に向かう尾根に階段陣地と大堀で堅め土橋が現在の登山道になっている。

 この大堀に面して「元社」と呼ばれる旧藤戸神社跡と伝えられる場所がある。ここから曲輪が4段ありその後、尾根は2つに別れ西へは二段の曲輪と竪堀が確認できる。山頂本丸から北に伸びる尾根上にも空堀と土塁、曲輪群が認められ小陣地を構築している。その小陣地の西南内懐の清水が湧き出ているところがある。

 本丸には昔から「焼米」出るといわれるが詳細は不明である。実際炭化した米が確認できた。さらに、今回の踏査で美濃大窯製の皿かと思われる。小片(やや口縁が外反する)16世紀代の遺物と現代陶器の小片が確認でき、これまで、城跡より遺物が確認された例は聞いた事が無いので、今回初めてか!!

 加地城は、鎌倉時代に佐々木三郎盛綱が地頭として金剛院領加地庄に入封し、加地城を本拠地とした。佐々木氏は宇多源氏の流れをくみ以後、竹俣氏、古川氏、新発田氏、大友氏、高浜、猿橋氏、楠川氏など新発田周辺の有力国人に分脈する。加地氏は鎌倉時代が幕を引いた 元弘3年(1333)以後、国内が南朝方加地時秀と北朝の加地景綱で、同族で両者に着いて敵対した事もあったが、幾多の戦乱を乗り切り、天正8年五十公野氏に攻められ一旦落城するが再建。天正15年(1580)加地城は上杉景勝に攻められ落城する。

登山口の案内板
藤戸神社への階段
土橋
山頂本丸
16世紀末の美濃焼皿片
山頂から見つかった炭化米
ジグザグに表れた電光型の道跡


引用参考文献
・ 昭和55年『新発田市史 上巻』新発田市 (2005)
・飯田素州『越後加地氏の系譜』新潟日報事業社

今泉館

 城主は屋代氏と伝えられる。旧加治川村の上今泉付近で「下城」の地名が残る。 昭和初期まで土塁等が歴然と残っていたと伝えられるが、現在は畑地や宅地で旧規は不明である。旧紫雲寺潟の湖岸、旧今泉川沿いに築かれた居館と思われる。  

 上杉景勝軍の2回目の新発田氏攻めで天正15年(1587)8月23日、今泉の屋代氏は新発田氏に加勢し、新発田城に援軍を出して軍勢が留守にしている時、隙をつかれ落城している。 同じ頃、加地城も落城している。戦いの様子は江戸時代の『菅規武鑑』に詳細記載がある。 城主・屋代常勝は海津城主・屋代秀正のいとこで秀正が三河に逃亡した時越後の逃れ、竹俣氏より今後本拠となる古川条中村を賜っている。

 常勝は文禄2年(1593)死去。屋代の苗字を渡辺と改め常勝寺(下中)の開基となっている。 地先には、他に屋敷添、土手付、船付、舟入などの地名がある。

越後野志 上巻より
 今泉城 加地郷今泉村二在、平地ノ城也、城主加地万休、天正中新発田治長反ク時守兵ヲ置居守セシム、天正十四年九月、藤田新吉之ヲ襲攻テ取之

引用参考文献
・飯田素州(2005)『越後加地氏新発田氏の系譜』
注)城主は「加地万休斉」とする説もある。(加治川村誌)

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