新発田重家の合戦関係城館 7 大室城、大崎陣所、笹岡城など

小林弘

大室城/阿賀野市

 五頭山麓に連なる低丘陵の内の一つの鳥屋ヶ峰丘陵の尾根西端付近にある。 現況は、大室集落にある日吉神社境内と杉林、宅地になっている。 主郭の境内と宅地との境界付近に土塁痕が認められ、 更正図からその東側の宅地にも複郭が存在したようにも思う。低い丘陵に、広い郭を配置し戦国時代の館城を想定できようか? 現在の神社本殿がある場所と、境内の東側に一段低く平坦地が認められ郭と思われる。 元和9年(1623)の安田組組之内検地帳に「たてのうち」の地名の記載がある。

  城主は大室主計(大室源次郎)と伝えられ、天正11年(1583)の上杉景勝と新発田氏との合戦で 大室氏が上杉軍の先陣役を勤めて活躍している。 大室氏の八幡での活躍 天正11年8月18日、新発田重家は手勢3000人を率いて上杉景勝軍と激突。景勝は大室源次郎を先陣として真木山の林の中に伏せ、右方に小倉将監、安田能元、 左方に島津左京亮、河田軍兵衛、前備に直江兼続、後陣に泉沢久秀で数時間に及ぶ戦闘でも決着が付かなかった。

 新発田重家方の浦城城主・山田源八朗が城を下り横合いから切り込んで、景勝方の小倉、安田が防戦したが次第に押されて後退した。 上杉政繁が浦村城を城主が城を下りている隙を狙い、乗っ取り、更に真木山の大室源次郎とともに重家軍を攻撃し、景勝自信も槍や刀を振るい奮戦し景勝方の勝利となった。 浦城城主・山田源八朗とともに討ち死にし、八幡城も落城した。

日吉神社
土塁上にある小祠


「温古の栞」二十一篇
 北蒲原郡白河庄大室山の古城跡は、建久年中より佐々木盛綱の一族大室家の居城也、 貞治年中の当主主計正は上杉憲顯に属し戦功あり、故に代々此辺を一円に領せしが、 永正7年6月19日当主兵庫重政は、魚沼郡長森原に於いて上杉顯定と共に討死し、 今尚同地に墳墓あり。

「越後野志」
  同庄大室村ニ在、城主大室主計、米沢候上杉家ニ其ノ後裔アリト云ウ

仮称・大崎陣所

 五頭連峰北端付近の大崎と八幡集落の中間に地元の人が「向山」と呼ぶ山があり、山頂から派生する東端の尾根に上にある。地元の人が「のろし台」の跡では?とおっしゃっていた場所があり、気になっていたので出かけてみた。 尾根上には、尾根の東端から取り付くように作業道の伐り跡が僅かにつけられてあり、少し藪を漕いで行くと小ピ-クがあり3箇所の曲輪が認められた。現地に行く前に地元の人から方形に作られた場所があり、これは何だろう?という話で、地元の方も何なのかよく分からないという。 恐らく八幡城や浦城が近くにあるので連絡用ののろし台ではないだろうか?という話であった。

 話から方形基壇墓や、山の地名に寺や墓地に関する地名で「万福寺」、「寺山」、「ランドウ」があ るので、寺跡や塚墓の可能性考えたが、実際山に入り、現地を見ると塚というより、 山の尾根を削平している点や山頂ピ-クの空間が狭い為、踏査以前に考えた寺や塚というより 想像と反して、今回は仮に陣所の名称をつけたが兵たん地的な場所の印象を受けた。 想像の域を脱し得ないが、周辺は天正年間の八幡表の古戦場で、上杉軍と新発田軍に加勢した八幡館城主・佐々木長助晴信との激戦地でもあり、上杉軍、新発田軍のどちらかの軍勢の小陣地跡であろうか?

参考
 向山の陣所に関する記事で、複数の文献に紹介されている。果たして、本遺構と関連があるのかどうか分からないが、紹介する。各出典は明らかではないが、天正11年の新発田因幡守重家軍と上杉軍との八幡の合戦で、上杉軍に勝算が生まれたきっかけになったのが、浦城の山田源八朗の軍が城を下りて新発田、上杉軍の横から突撃して来て上杉軍が苦戦していたが浦城が空になったその隙に、上杉政繁(上条弥五郎)が向山に陣所を設け浦城をのっとり、一転上杉軍に勝算が出て勝利したという内容である。
この大室城でも紹介してあります。

陣所?遠望
山頂曲輪?
メモで書いた縄張り図・・・上が北



参考文献
 ・飯田素州「越後加地氏 新発田氏の系譜」P.417 新潟日報社
 ・大沼倹爾「新発田因幡守重家」渡辺印刷

笹岡城/阿賀野市

 笹岡城は五頭山系の前山の一部が北西に向かい半島状に突き出た台地に築かれている。 台地の周辺はは水田が広がっているが以前は湿地で天然の要害となっている。 また城跡の北側には折居川が福島潟まで流れ内水面の交通の要所でもあったと思われる。 城跡は現在公園や墓地、境内、荒地で、現在公園になっている部分は充分居住空間を持てるだけの面積がある。以前城跡を訪れた時、ここに学校があって沢山の生徒がいたのを覚えている。 その周囲に土塁が巡る(主郭)。主郭の南東側には物見台跡が空堀を隔ててある。

 物見台の南東には深い空堀が弧状に巡り土橋が残る。一段低い曲輪には現在寺院と神社が ある。城跡の公園に行くための「十朗杉」脇の道路は、学校への連絡道路の名残りだろう。主郭と現在寺院境内のある曲輪は連絡道路で結ばれている。城跡の東側を「笠ノ山」と 呼び出丸があったと伝えるが詳細不明である。採集遺物は青磁端反碗、珠洲焼擂鉢(六期のものと思われ口縁内面に波状の櫛目文があり全面に卸目がある)、他に越前、染付け、石臼がある。概ね14~16世紀頃の所産と考えられている。

 発掘調査は行われていないが昭和62年に本格的な測量調査が行われ50箇所余の曲輪が確認されている。縄張りは、戦国時代の館城を想定できる特徴を有すると思われる。 笹岡城は貞和年間(1345~1350)篠岡中将丞資尚の築城である。応永の乱には守護方の上杉、長尾方に呼応して中条房資(奥山庄・胎内市)が派兵し笹岡城に籠城した。享禄~弘治の頃には山浦源吾国清が城主となる。その後、上杉景勝の家臣今井源右衛門が在番となる。天正6年(1578) 酒井新左衛門、黒金宮内が在番、天正8年新発田重家の反乱で上杉方の最前線基地として攻防があったが新発田氏に攻められ落城。

「十朗杉」現地説明板より
天然記念物(笹神村指定文化財)
1、名称 十朗杉 樹齢約450年位
1、測定 高さ約24m、周囲6.2m
1、所在地 この地は中世末期の笹岡城である。
1、名称由来「十朗杉」の他に「城桜杉」「女朗杉」の呼称があり口碑伝説による名称については次の由来がある。
「十朗杉」昔、この地(小丘)の北西部の低地は一面の湖沼地帯で唯一の連絡船「十朗丸」を この木に繋いだとか、「十朗」という人が植えたという二説ある。 「城桜杉」元亀・天正の頃約400年前、笹岡城の望楼の役目を果たしていたということから この名称がある。
「女郎杉」笹岡城の奥女中を葬ったということからと、 宿場町当時の遊女を葬ったところからという二説がある。
  昭和55年建 笹神村教育委員会 城跡にある諏訪神社境内には中世石仏が5基あり、笹岡城主今井氏の墓所がある。

越後野志 下
 同庄(白河庄)笹岡ニ在、山城也、古へ笹岡中将常安居住ス、其年暦不詳、驛中山崎ニ常安禅寺アリ、此ノ寺ハ常安所建ニシテ其菩提寺ニテ名ヲ以テ寺号ト為スト云フ、其後山浦源五国清居住ス、天正九年辛巳十一月、景勝公国清ヲ頚城ニ移シ、今井源右衛門ヲ城主ト為、酒井将藍、黒金宮内ト共ニ来テ相共ニ居住ス、 北国軍記ニ、城主酒井新左衛門天正十三年ノ記ニ見ュ、 笹岡ヨリ十町許西南方ニ前(薪?)田村アリ、其ノ村ノ長ハ笹岡城主今井氏ノ長臣ノ後裔也ト云、其家蔵ノ舊記ニ云フ笹岡城主今井右衛門之亮天正六年二月二十八日卒、瑞林院殿玉鳳鸞祥大居士ト諡ス、 右三説不同アリ、何カ是ナルコトヲ不知、前田村ノ長城跡ニ碑ヲ建、之ヲ記ス、

笹岡城跡本丸に主郭の公園・・周囲に土塁が残る
笹岡城主今井氏の墓所

十朗杉
諏訪神社境内の中世石仏

赤橋館

 旧佐々木川左岸の段丘端に立地し北面は旧佐々木川の氾濫原である。居館跡に纏わる中世の遺物等は確認していない。「榎本玄蕃頭」の居館と伝える。 榎本玄蕃頭は天正年間の新発田合戦の際、新発田氏側の武将として参陣し、上杉景勝と対峙し天正12年「八幡の合戦」で落城した。付近の地名を「館脇」と呼んでいる。

 現況は赤橋集落で畑地、水田、宅地で周囲に「本屋敷」「下屋敷」「館ノ外」の地名があるというが、図面等で未確認である。 居館付近の竹林に土塁状の高まりが確認できる。何れ機会を見て図面があれば調査したい。 段丘崖を枡形状に削平した「コ」字状の場所が確認でき、恐らく合横矢か? 現地の案内標識が立っている。地方史によれば、隣接する小坂の永見寺の前身である「慈正院」は榎本玄蕃頭の開基、慶長9年(1604)観翁林察和尚と伝える。

コの字状の段丘崖
榎本玄蕃頭開基の永見寺
赤橋館の標柱

荒川城

 五頭山西部、主稜から伸びる支尾根の末端近く、荒川、田家集落を眼下の谷あいに遠望できる 「要害」と呼ばれる場所にある。 今回は尾根の南東にある鉄塔用作業道から城址を訪れた。鉄塔用作業道を少し登ると鉄塔があり、そこで道は切れる。ここから急な藪こぎで山頂・本丸(143.6m)まで登る。 立冬で葉っぱが落ちているとはいえ常緑樹の椿や、黄楊などが複雑に体に絡みつき踏査を妨げる。山頂から伸びる「Y字」状の尾根に空堀や階段状の小幅の曲輪、土塁が確認できる。
 山頂本丸は狭く山頂に居住施設を持っていたとは考え難い。山麓に居館などの居住施設が付随する事が予想され、先述の荒川上館や下館が山麓に展開していたと予想されることから何らかの関連が考えられる。

 本城址の城主は荒川伊豆守義遠と伝えられ、天正年間新発田合戦の際には新発田氏側の武将と言われているが、この人物の詳細は不明であるが天正5年12月23日「上杉家家中名字尽」に荒川弥二郎の名前が見えるという。山頂からは荒川上館の推定地が望まれる。 城跡のある尾根の北西端付近に荒川神社があり、伝承では現在地の南側の谷を「元宮」と言い、 最初に神社があった場所という。現在竹林や杉林になっている。 その後、荒川下館付近に遷宮され荒川氏の居館の守護神と伝えるが大正年間に現在地に遷宮された。祭神は熊野権現、天照皇大神である。

荒川城遠望
本丸から荒川上館方面
伝・館の守護神、荒川神社


●引用参考文献
・(昭和38年)伊藤正一『新発田郷土誌』第2号 新発田市史編纂委員会 (昭和63年)
・ふるさと伝承会『昔の新発田の暮らし』叢書 第一集
・飯田素州『加地氏新発田氏の系譜』新潟日報事業社

太斎館

 旧佐々木川流域。国道290号線からおよそ300m離れた太斉の村はずれの水田に、神明神社がある。この付近を地元では「館ノ腰」と呼び。居館跡の推定地である。神社境内には朽ちた「太斎館」記載の標柱が落ちていた。現地からは当時の面影を知るすべも無いが、神社境内付近が他より少し高くなっているだけであるが、方形居館と思われる。近くに白鳥が羽を休めていました。
  城主城歴不明であるが、地方史には南東1.7kmの八幡館の佐々木晴信とあるが出典も明らかでない。地方史に江戸時代の『菅窺武鑑』に上杉軍、新発田軍の天正年間の新発田合戦の際、 太斎に新発田氏の守りで館が置かれた事が記載されているという。

(註)付近から中国貿易陶磁青磁、珠洲焼叩甕片が確認できた。他に、周辺には古墳時代の遺跡がある。
(註) 平成21年に本居館跡が発掘調査された。それまで豊浦町史によれば『菅窺武鑑』を参考に、16世紀、天正年間の新発田因幡守重家と上杉景勝の合戦で新発田側の守りとして本居館が機能していたと考えられていたが、調査成果から15世紀前半にはすでに廃絶していた事が明らかになった。『菅窺武鑑』に豊浦町史に言う内容で、本居館の事を指し示す記載があるか探したが、みつける事ができませんでした。


引用参考文献
・昭和62年『豊浦町史』豊浦町

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