【会員投稿】グーグルストリートビューでみる新発田市の近代産業遺構と跡碑

 佐藤茂


 新発田市には,日鉄鉱業赤谷鉱業所の専用鉄道線の鉄橋と隧道が近代産業遺構として残っていて,観光スポットになっている.この他にも市内には,明治期以降の近代産業遺構と跡碑がいくつか存在している.これらは,現地に行かなくてもグーグルストリートビューによって現在の様子を簡単に見ることができる.

1.北越製紙赤谷鉱業所(北越製紙赤谷炭鉱)慰霊碑

 戦前から戦後にかけて新潟県内では5ヶ所の石炭炭鉱と50余ヶ所の亜炭炭鉱が稼動していて,なかでも赤谷炭鉱が最大規模であった(昭和10~25年の出炭量が年間1万トン以上).赤谷炭鉱は万延元(1860)年頃始まり,昭和38年の閉山まで100年近く続いた.最盛期の昭和18~26年は北越製紙赤谷鉱業所として運営されていた.炭鉱は上赤谷集落南西の谷奥2 kmほどに山元があり,掘り出された石炭は山元の検炭場から,索道によって赤谷駅前の投炭場に運ばれ,そこで貨車に積み込まれた.最盛期の炭鉱には約300人が働いていて,谷筋の複数個所には鉱山住宅(社宅)の集落があった.写真の慰霊碑は,炭鉱で亡くなった鉱員の慰霊碑で大切社宅に跡地にあるが,今では周囲はすっかり雑木林になっている.

<参考>
北越製紙赤谷炭鉱『緑の谷・赤い谷』 https://yabukarasu.blog.fc2.com/blog-category-21.html
赤谷炭鉱大切社宅跡 『里山讃歌 (新館)』 https://satoyamasanka.blog.ss-blog.jp/2020-01-28

2.日曹鉱業飯豊鉱山慰霊碑

 赤谷線の終点東赤谷駅から,飯豊川に沿って5 km上流に日曹鉱業飯豊鉱山があった.この鉱山は,明治初めから飯豊川左岸の小岐抗で銅鉱や亜鉛鉱を採掘していたが,昭和9(1934)年に日本曹達株式会社の所有になり,昭和11から本格的な開発が始まった.鉱山は,昭和41,42年の羽越水害後に加治川治山ダムの建設が計画され昭和42(1967)年に廃山になった.小岐坑で銅鉱,飯豊坑では亜鉛,鉛が採掘され,その後,鉄,炭酸カルシウムが採掘された.飯豊川右岸の二カ所の河岸段丘上に鉱山設備と鉱員社宅(最盛時には200人規模)が設けられ,鉱員はここから鉱山まで通った.地形が急峻で豪雪地域のため雪崩の被害が多く,昭和14年には18名の鉱員が雪崩により死亡した.写真の慰霊碑は,日本曹逹株式会社の創業者である中野友禮によって昭和14年6月3日に建立されたものである.慰霊碑は,社宅集落内にあった飯豊小学校の校庭脇の高台に建てられたが,閉山後の現在は雑木林の中に埋もれている.

3.大平洋金属新発田工場跡碑

 カルチャーセンター敷地内に昭和14年から昭和54年まで,大平洋金属新発田工場があった.当時,旧国道7号を通って北側から新発田市街に入ってきて最初に目にするのが,溶鉱炉を収納した屋根と壁だけのひときわ大きい建物であった.時には赤く焼け溶解した鉄を取り出している光景を目にしたものである.幼時からこの光景を見慣れた筆者にとっては,新発田は城下町ではなく大きな工場のある町のイメージが強かった.工場は日本曹達新発田工場として昭和14(1939)年に開設され,その後親会社の名称が日曹製鋼(1949),大平洋ニッケル(1959年),大平洋金属(1970年)に変わり,昭和54(1979)年に閉鎖された.工場では同社飯豊鉱山で採掘された鉱石から鉄や非鉄金属の精錬を行っていたが,1950年代半ば以降は同社のフェロニッケル(ニッケル合金鉄,ステンレス鋼の原料)精錬の主力工場になり,戦後初期の日本のステンレス鋼の需要を支えた.時代が降って,フェロニッケルの需要が高まり生産拡大が求められると,生産基地が大平洋金属八戸工場に移り新発田工場の役割が終わった.写真は,同社の工場敷地跡に建立された跡碑である.

4.日鉄鉱業赤谷鉱業所専用鉄道遺構

 明治以降の赤谷鉱山は,明治12年に個人が鉄鉱石を採取したことに始まり,その後三菱合資会社,官営八幡製鉄所を経て日本製鉄株式会社の所有になり,昭和14(1939)年に同社の鉱山部門が独立した日鉄鉱業株式会社が設立されて日鉄赤谷鉱業所となった.昭和16(1941)年から本格的な採掘が始まり,最盛期の昭和 19 (1944)年には 1,025 名の従業員が従事し,年間 10万トン弱の鉄精鉱を生産した.鉱業所は昭和 50(1975)年に閉鎖された.赤谷線の終着駅である東赤谷駅南側に日鉄鉱業の社宅街があり,600人前後の居住人口があった.東赤谷駅から飯豊川の上流4 kmの鉱山まで,専用の鉄道線が伸びて鉱石や作業員を輸送していた.初めは蒸気機関車で運行していたが,経路を変えて電気機関車による牽引に変わった.写真は電気機関車の運行に変わった後の専用線の鉄橋である.手前に見える欄干は,経路変更前の鉄橋が車道上の橋として利用されているものである.またもう一枚の写真は,専用線の隧道で,現在は県道として利用されている.

5.大倉製糸新発田工場跡碑(大倉喜八郎胸像)

 大正7(1918)年に,大倉財閥大倉喜八郎と長野県須坂市の実業家越寿三郎が共同で株式会社大倉製糸工場を設立した(大倉が会長,副会長が越).同社は現須坂市の製糸工場を買収するとともに,翌年新発田工場を新設した.新発田工場の製糸技術は須坂工場の技術が移転されたものであった.最盛期には666人の職工が働いていたとされる.筆者は昭和31(1956)年に小学校1年時の修学旅行で,稼働中の同工場を見学し,温湯に漬けた繭から絹糸を取り出す繰糸作業を見学したことを覚えている.新発田工場は,昭和56(1981)年に閉鎖されるまで存続した.現在工場跡地は新潟県立新発田病院の敷地になり,隣接して広々とした駅前公園(大倉記念公園)になっている.写真は,公園の外周道路から遠望される大倉喜八郎の胸像を中心にした記念碑群である.この大倉八郎の胸像は,ここに大倉製糸新発田工場があったことを示す跡碑である.

 

6.加治川分水路 

 明治初期の加治川は,下流部が砂丘地に阻まれ,真野原付近で大きく左に曲がって阿賀野川に合流していた.このため流れが悪くなり,土砂堆積が生じて水害が頻発した.そのため,加治川を短距離で日本海へ切落とす加治川分水路が開削された.分水路工事は明治41年に始まり大正3年に完成した.真野原新田から次第浜に至る4.9 kmの間に109~182 mの幅の水路を開削し,分派地点には運河水門と土砂吐水門が設けた.平時には運河水門を開き土砂吐水門を閉じておくが,出水時には運河水門を閉じて土砂吐水門を開いて水門前面に堆積した土砂を分水路に排出したものである.分水路の完成後50年余は大きな水害は起こらなかった.しかし,昭和41年(下越水害)と42年(羽越水害)に水門上流で破堤し大洪水が起こった.これを契機にして治水計画が見直され,加治川分水路が本流とされた.写真は,加治川本流になった分水路を紫雲寺橋から下流方向を見たものである.本流化工事によって廃止された運河水門と土砂吐水門は,近くの加治川治水記念公園に移設されて近代土木遺産として残されている.

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